2016年6月13日月曜日

蔵出しインタビュー 笠井叡氏に聞く

このインタビューは2015年4月の京都芸術劇場 春秋座公演『今晩は荒れ模様』に先立って実施し、春秋座ニュースレターに内容を圧縮した形で掲載されましたが、記事に入らなかった部分のお話も非常に面白く、是非多くの人に読んでもらえるよう、笠井叡氏と京都造形芸術大学舞台芸術研究センターの了承を得て、ほぼ編集なしで公開するものです。



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笠井叡氏インタビュー (ほぼ)書き起こし

実施日:2015年2月9日
京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 春秋座楽屋にて      



――本日は、来る4月に予定されています新作『今晩は荒れ模様』についてお伺いするとともに、笠井さんのこれまでの歩みや舞踏について、コンテンポラリーダンスの状況と絡めながらお話をお聞きしたいと思います。

まず私事を申しますと、ダンスの取材や批評活動をはじめたのが90年代の後半、コンテンポラリーダンスのブームが起き始めていた頃で、舞踏の創成期から全盛期をリアルタイムでは知らない世代の一人です。笠井さんを知ったのは、東京の国際舞踊夏期大学で行われていた木佐貫邦子さんのクラスを覗きに行ったことがあり、そのワークショップ・シリーズに笠井さんの講座もありまして、見学させていただいたのが最初の接点です。笠井叡さんは土方巽、大野一雄とともに舞踏の創成期を担ったお一人ですが、当時の公演では木佐貫さんとの即興デュオ『Yes, No, Yes, No』、上村なおかさんなど若手のダンサーと共演された『Spinning Spiral Shaking Strobo』など、コンテンポラリーダンス・シーンで活躍されていたという印象があります。その後私が関西に移りましたので、それ以上あまり多くを拝見できていないのですが、京都ではここ春秋座で2003年に『花粉革命』、2011年に『血は特別のジュースだ』を上演されており、今度の新作は春秋座での3作目ということになります。



笠井:それだけご覧になっていれば十分ですよ(笑)。



――春秋座での上演などを拝見しますと、西洋の文学や思想、哲学を背景に、非常に大きく深遠な作品世界を打ち立てられ、そこに笠井さんの身体が即興的に舞うという構図が見えるように思います。



笠井:ああ、そうですか。



――最近では、作品『ハヤサスラヒメ』で、ベートーベンの第九全曲を振付けられ、大駱駝艦とコラボレーションされています。また『日本国憲法を踊る』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されています。古事記にちなんだ創生の物語であったり、国家の根幹をなす憲法を主題にされたり、非常に重厚なテーマに立て続けに取り組んでいらっしゃるという印象です。そしてこのたびの新作でも、世界を大きな視点から見るような、メッセージ性のある言葉が打ち出されていますね。「(フライヤーを読む)すでに、戦争の時代は終わっている。今、人は歴史が耐える限りのものを日々の生活の中に向かって投げ返している。だから、真新しい緑の野で今晩も、荒れ模様。」ここに込められた新作への思いをお聞かせくださいますか。



笠井:まず、戦争の時代は終わっておらず、これからますます続いていくでしょう。いや厳密には第二次世界大戦で終わっている、終わらせなければいけない。戦争は政治の延長であり最終形態です。が、もし今後戦争があるとしたらそれは単なる破壊だ。その意味ではもう戦争の時代は終わっている。人類がやるべきことはたった一つ、戦争をやめること、克服することです。音楽家がどんなにすばらしい作曲をしたとしてもこれができなければ意味がない。戦争は暴力であり、暴力とは人間のからだの中にあるカオスです。混沌としたカオス、善悪ごちゃごちゃの状態です。昨今の小学校での殺害など理由なく人を殺すという事件は暴力の一番いけない形です。それは自己表現とか何かの解決のためでなく大義なき暴力であって、暴力の最悪の形です。ただ破滅させる、ただ人を殺す…今私たちは最悪の時代に生きている。

この暴力のエネルギーとダンスのエネルギーは、私の考えでは同根です。歴史的に見ると、日本では戦争があると村を上げてのどんちゃん騒ぎ、戦争へと人々を駆り立てる踊りをやっていた。そうして戦争へ行く。ギリシャでは紛れもない戦争の踊りがある。剣と盾で踊り、そのままの勢いで戦争に行く。戦争のエネルギーとダンスのエネルギーは一緒です。無意識のうちに一体になっている。ともに体の中にあるカオスです。ただその取り出し方が違う。ダンスはカオスの中により深く入っていく。ところが戦争のほうは短絡的です。今の時代の暴力はカオスを外に出したものなんかじゃなく、浅すぎる。この間の事件でも、ちょっと木刀の振り方を注意されたからといって小学生を殺傷する。パリのジャーナリズム襲撃のテロでも、あまりに殺害に至るまでが浅い。イスラム国だってそこに何の大義もなく、それどころか何の政治的メリットもない単なる破壊です。今の時代、暴力が「やすく」なってしまった、人間の命もやすくなってしまっている。そういう「やすい」戦争ではなく、戦争を克服する本質的な力、体の中からカオス的な本質を引き出す力を、暴力や戦争の形ではなく、直視することが求められている。ダンスはそのための道具ではありませんが、人間の中にあるカオスがどういう形で現れて来るかを皆が体験することが必要なのです。



――ダンスは芸術の中でも暴力性やカオスに最も親和性のある形態であるのかもしれませんね。



笠井:ダンスを作るときって体の中にあるものを外に取り出すだけではできないのです。時代の中に流れているものと体の中にあるものが一体にならないと。人類全体、時代全体の中でダンスしているのです。



――時代の中で踊るのだということですね。今回の6人はどなたも今この時代に第一線で活躍するダンサーばかりで、このように一堂に会することは普通にはなかなかあり得ないことだと思います。それぞれの出演者に何を期待し、また6人が集まるとどのような場が生まれるとお考えですか。



笠井:期待はしているがまだわからない。去年の5月か6月あたりから一人につき30日をかけて振付をしてきて、6人だから180日、つまりそれぞれのダンサーに振り付けるのに半年かかっていて、まだラン・スルーはしていないのです。また戦争の話にもどりますが、第二次世界大戦は紛れもなく男の戦争でした。ですが女性のもつ暴力性、カオス性というもの、ひょっとしたら新しいカオスの出し方があるのだろうなと思うのです。もし第二次世界大戦で女性が政治と文化を引っ張っていたら――そんなことはあり得ませんけれども――あのような形にならなかったのではないか。私が勝手に思っているのは、女性のカオスは人類の戦争を乗り越える力があるということ。これをもっと吸収して、直接的に現れることはないとしても共存していく。それは昨今の「女性の活躍」とかいう話とは違います。女性のもつ身体性を、私も含めて日本の男性はまだわかっていない、もっと学ばなくてはなりません。

なぜ日本人かというと、日本では能でも歌舞伎でもダンスを作ってきたのは男性です。ヨーロッパでは反対に女性を中心としたクラシック・バレエがある。体の使い方の違いもあるが、クラシックでは男性の美学に合った形で作った形式で女性の身体を出している。それは女性の一つの側面ではあるけれども、女性の本質が出ていません。ひとつの局(極)を出したとはいえるが、まったく出ていない面もあった。それに対してイサドラ・ダンカン、マリー・ヴィーグマンといったドイツ表現主義は女性のソフィア的、つまり感性的な面を出してきた。オイリュトミーもこの流れの上にあるものです。オイリュトミーとは非常に女性のソフィア的、感性的な面と共通するものであるといえるのです。クラシックはソフィア的な理解ではなく、トゥ・シューズを履かせ、チュチュをまとい、ポワントを強要し、物質化されたエロスを、男性が堪能できるようなエロティックな面を出している。そうではない女性の理解というものは、19世紀になって表現主義のダンスによってやっと出せるようになった。日本のモダンダンスではクラシックな女性美でなく、ある意味、解放された女性性が、表現主義により取り入れられた。石井漠、江口隆哉といった戦前のモダンダンスの先駆者たちです。



――日本にはダンス・クラシックの伝統がなかったから取り入れやすかったのでしょうか。



笠井:そうでしょうね。日本ではクラシック・バレエの人口よりモダンの人口の方が圧倒的に多い時代があったのですよ。女性解放の運動と結びつき、ドイツのモダンダンスが取り入れられた時代が。



――そうでしたか、それは知りませんでした。今回の6人のダンサーはまさにそのような、男性の美学を超えるソフィア的側面を出してくれる人達といえますか。



笠井:解放してくれる力を見せてくれると考えています。寺田さんは少し違う面があるが、他は皆さん、男性にはないソフィア的なものをもっている。ただ、その在り方はそれぞれ違っています。

たとえば上村なおかさんは中性的で、女性の持つ広さや深さ、受容する力のある人です。付き合いは長いのですが、彼女はどんなに困難なことを要求しても「ダメ」と「イヤ」は言わない。ただ黙っているか、静かに聞いている。

黒田育世さんは過激性、ちょっと攻撃的といえるくらいの過激さがあります。それまで女性がこんなことまでしないだろうという部分をさらけ出す。ただ彼女にとっては過激でもなんでもなく、自分にとってやりたいことを自然に無理なくやっている、ソフィア的過激さ、さらけ出す過激さがある。



――セクシュアリティの表現においても、ということでしょうか。



笠井:そうです。彼女に『落ち合っている』という、先回のフェスティバルトーキョーで発表した作品がありますが、お子さんを産んだあとの作品で、子を持つ前と全然違う身体が出ていた。母性がテーマですが、それがエロティックでもある。



――普通はエロスの対局にあるのが母性であるという捉え方をしますね。清らかなものであるという。



笠井:彼女の場合はそうではない。たとえば大島早紀子(振付家、Hアール・カオス主宰)にも子供を産んだ後の作品があるが、こちらは自然性を過剰に謳歌するものでした。食欲の強調とか舞台の上でひたすら水を飲むとか、生理的なものを前面に出していた。黒田育世の過激さはそれとは違ったものです。



――白河直子さんは久しぶりの舞台です。誰にも異論のない、カリスマティックともいえるダンサーです。



笠井:そうなのですが、存在自体はものすごく普通です。普通のおばちゃん、八百屋でレジを打っているいようなおばちゃんみたいな人。自分を特別視しない。少しでも鼻にかける人とは絶対に一緒に仕事できません。その普通の人が舞台ではカリスマ的な集中力を発揮する。ただ、今回はH・アール・カオスの彼女ではない白河直子を出すよと言ってある。これまでの彼女は男性が喜ぶような見せ方で、ワイヤーで体を吊るとか裸を晒すとか大島早紀子のフレームの中で輝いていた。



――アクロバティックで挑発的なスペクタクルが持ち味でした。



笠井:それをはぎ取って女性のカオスの深いところを引き出したいと思っています。彼女は年齢を重ねても、まったくその負荷を感じさせない人。



――陰ではものすごく努力する人と伺っています。



笠井:そうなのです。ただ彼女はこれからもずっと変わることなく、あのままでいくでしょう。



――異色とおっしゃる寺田みさこさんについては。



笠井:クラシック・バレエの経歴があるにもかかわらず、バレエと正反対のカオス的表現をする人です。山田せつ子さんと2人で踊った作品はまさにその正反対の面が出ていました。無限に形をつくり変える軟体動物のような体がありました。



――山田せつ子さんが振付けた作品にみさこさんが出演され、ここ春秋座で上演されたことがありましたが、たしかにあのクラシックの身体に舞踏のエッセンスが注ぎ込まれ、それまでのどの舞踏手ともちがった不思議な踊りになっていたのが強く印象に残っています。ここ関西では「砂連尾理+寺田みさこ」の活動時期のことがよく知られていますし、色々な面をもったダンサーですね。



笠井:これはまだ確定していないのですが、今度の舞台で寺田さんはトゥ・シューズを履くかもしれません。本当にどこへ行くかわからない人です。トゥ・シューズは踊り込んでいないと使いこなせない。その意味では技術的に相当厳しいものになるかもしれない。にもかかわらずトゥ・シューズに挑戦したいという踊り子魂が素晴らしい。20分のソロを踊り切るというのは大変な挑戦です、いやこれはまだわかりませんが。山田せつ子さんも含め4人は発散タイプですが、みさこさんは吸収タイプ、視線を引き込むブラックホールみたいな、引き寄せるオーラをもつ人です。上村なおかさんも少しそういう傾向にありますね、魔性系といいますか…(隣の笠井久子さんに同意を求めて)ね、そうだよね。(笑)



――森下真樹さんはコミカルで道化的な面がありますね。



笠井:幅の広い個性を持つ人です。なんでも遊びにしてしまう。ダン活(ダンス活性化事業)で青森県の八戸へ行ったとき、地元の消防団員のグループに振付をしたら劇場が満杯になったそうです。民謡を使ってね。そういう面を持っている人。こちらの春秋座でも昨年『錆から出た実』を上演したでしょう、タイトルも面白いですね。そして酒飲み!



――いわゆるプリマのタイプとも違うのでしょうね。



笠井:プリマではないです、何でも屋です。上村さんと以前に一度デュエットをしたことがあるのですが、二人は見た目が似ていて面白いなと思った。けれども正反対。実年齢では上村さんがお姉さんだが、一緒にやると森下さんのほうがお姉さんに見える。



――さて、そして山田せつ子さん、天使館が輩出したダンサーの中でも第一人者でいらっしゃいます。



笠井:山田さんは(私が主宰した)天使館という研究所の稽古に、私がドイツに行くので閉館するまで8年間すべて出た人です。彼女はどこからこんな動きが出て来るのかわからないゲリラ的な動きをする。どうしてこんな動きをするのだろう、といったような。入門して1年間、壁に立って動かなかった。目だけしか動かないんです。



――安易に動かないということでしょうか。



笠井:その分、いざ動くと、その動きは納得できるものですね。



――やはり天使館出身のダンサーということで託すものも大いにあるのではありませんか。



笠井:彼女には全体をひっぱってまとめてもらおうと思っています。



――以上6名のダンサーに笠井さんはどう絡んでいかれるのでしょう?



笠井:僕はまず冒頭で踊り、6人がソロを踊ってまた最後に出ます。そして全員で踊ります。



――それぞれの存在感が拮抗しそうです。



笠井:ただ、まだ個人ごとにしか作業していなくて、ラン・スルーを行っていないので、繋がりがどうなるか、見えて来るのはこれからです。



――あるインタビューで、笠井さんは作品主義でなくダンサー主義だと話されているのを拝見しましたが、今回も、まずダンサーがいるところから始まるということになるのでしょうか。



笠井:作品主義というのは、私の考えでは構成なりコンセプトなりをまず作るということ。それに対してダンサー主義は、体さえあれば作品になるということ、体が作品とも言えます。



――しかもこれだけの実力あるダンサーがいれば、そこに何も加えることなく成立しそうな気もします。笠井さんは場を作るという役割になるのでしょうか。



笠井:まあ、そうですね。



――その場合、振付というのは、各人から持っているものを引き出すという作業になりますか?



笠井:引き出すということはしません、それなら即興にします。



――その人の経験や身体の中に積み重なった記憶を引き出すことが振付作業だという考え方がこのところ多く見られるようになってきていると思います。それがある面では現在のコンテンポラリーダンスの弱さにつながっているとも思えるのですが。



笠井:私の振付は、中にあるものを引き出す、取り出す、ではなく、その人が一生やっても出てこない動きを与えることです。その人がもっていないものを出したい。いや、同じことかも知れませんが、この振付をしなくては絶対に出てこないというものを与えることで、その人のこれまでになかった面、別の面を引き出すということなのです。



――なるほど。振付という作業について、非常に明快な考え方をお伺いできた気がします。とても興味深いです。

さてここからは笠井さんの舞踏家としての面について伺ってまいります。舞踏の創成期に土方巽や大野一雄と舞台を共にされながら、やがて袂を分かって天使館を設立されます。天使館の舞踏とはどのようなものでしょう?



笠井:まず(二人の影響の)違うところを言いましょう。振付作業は土方から学んだのです。ダンサーに振り付けるわけですが、それは人間関係を作ることから始まります。誰でもいいから振付けて下さい、ではだめで、そこ(振付)にいたるまでの過程が必要です。出会って誰とでも恋愛にならないように、誰にでも振り付けられるわけではない。あの人とは恋人関係、この人とは夫婦関係というように、そこには「振付関係」とでもいう関係性があるのです。私にとって振付関係というのはダンスのカテゴリーより少し手前なのです。その人と舞台を作るかどうかを前提としていないところがあって、舞台化に至る前の時間を共有することが大切です。私の舞台を見てよかったから是非自分にも振付してくれないかと言われるとしても、「あなたとはまだ出会っていないから」ということになる。



――その意味では今回のダンサーは皆、長いお付き合いのある、振付関係にある方々でしょうか。



笠井:長くないのは寺田みさこさんと森下真樹さんのみですね。

即興については、まぎれもなく大野一雄さんが師です。師はたくさんいまして、即興が大野一雄、モダンダンスは江口隆哉、バレエは千葉昭則、彼はパリ・オペラ座のメソッドに則った人で日本にそうした人は他にいなかった。オイリュトミーはドイツのエルセ・クリントです。



――笠井さんの踊りは様々な要素のリミックスなのですね。



笠井:ごちゃ混ぜですよ。



――ハイブリッドといえますね、‘舞踏家’という一言で理解していましたが。



笠井:私にとっての3つの舞踏の条件をお話しましょう。一つめはコンテンポラリーであること。昭和の終わりには昭和の、平成に入っては平成の、現代には現代の踊りというように時代とともにあることです。その意味で文字通りコンテンポラリーであることです。

二つめは人間関係にヒエラルキーを持ち込まないこと。師と弟子でも友人関係にあることです。



――舞台上で主役とその他大勢のコロスや群舞の階層を作らないということでしょうか。



笠井:そういう意味ではないです。コロスの中に素晴らしい人がいてもいい。細かいことを言いますと、私と息子の笠井瑞丈が共に踊る場合でも、カリカチュアとして父子が入ってくることはあっても、人間の上下関係はないと思っています。

三つめは内的であること。どんな物質的な表現をしようとも、その人の内的なものが入ってくるような。抽象的ですけれど、どんな経験もその人の内的な体験として踊りに滲み出てくる。



――目新しい動きを、いわば目の愉しみとして作るというのではないということですか?



笠井:たしかにそういう、目新しいからやるということはあったとしても、それは否定しません、目新しいコンセプトとか絶対人がやらないようなことはいいが、それは一回だけであって、定着させることではない。頬っぺたをパチンと叩いた音が新鮮なダンス体験となることはある。しかしそれを方法論としてしまうと内的じゃなくなる。そう、方法論化しないこと、とも言えますね。簡単に型にしない。(型を)否定はしませんが。



――その都度その都度、なのですね。



笠井:その都度その都度です。そうじゃないとただ型の再現になってしまう。



――型を逃れる、と言いましょうか、きれいな形にはまることから体を逃していくという不断の過程が笠井さんの即興からは見える気がします。



笠井:型には両面あって、型の中に入って自らを燃焼させ、型と心中するほどの人もいますが、そうではなくて、型っていうのはそれを種にして次のステップへ行くためのものであっても、それ自体を目的とするものではないのです。型を踏み台にして次へ行く。わかりますか?



――はい……私なりに理解した気がします。さて、こちらの春秋座は大学内劇場でもありますので、現在の若い人の表現についてお聞かせいただければと思います。昨今のコンペティションなどでもしばしば云われることですが、日常的、身辺雑記的な小さな表現が多く、それは「この私」のもつ一個の体のリアリティを大切にするという姿勢から出てきているとも言えますが、限られた小さな世界で自分探しを続けているようにも見えます。笠井さんは同時代性を意識し、大きな世界観をダンスによって構築できることをご自身で示されていますが、小さな作品を作っていると言われる若い人たちへメッセージをいただけないでしょうか。



笠井:今の人たちは私から見てある不幸な状況に置かれていると思います。情報と機械とパソコン。その海の中で呼吸して育ってきている。第二次世界大戦が終わり、必死になって国家や経済を立て直し、教育の在り方を立て直そうとした戦後、60年代70年代の変動期のすごく大きな運動も含めて、その時期にダンサーだった(私も含めた)人たちと比べると、高度情報社会(に育った人たち)には体が何かということが見えなくなっている。自分探しをしなければどうしようもない、それなしには立ち行かない。そういう表現は小さいかもしれないが、ばかにしてはいけない。狭く、小さな作品でも私はいいと思う。その小ささの中に本当に内的な力がありさえすれば。言葉の使い方、メール一本送ること、その中にも研ぎ澄まされた判断、感覚、気配りがあり、その小さい作業の積み重ねによって、やがて巨大なものに対峙していくだけの力を蓄えることはできる。その中から情報に縛られた体ではない、生のままの体のもつ力をそなえた作品が生まれる可能性はあるはずです。



――大変勇気の出るお話です。若いダンサーや振付を目指す人たちの励みになると思います。本日は舞踏とダンスの現在が繋がるようなお話をお聞きすることができました。有難うございました。



201529日、春秋座楽屋にて  聞き手:竹田真理)




2016年6月1日水曜日

アンサンブル・ゾネ 稽古場公演 7×7



アンサンブル・ゾネ 全作品上演計画 7×7

Place in the Moment』 

5月20日(金) @アンサンブル・ゾネ 稽古場


作:岡登志子
出演:森美香代(ゲスト) 伊藤愛 糸瀬公二 桑野聖子 住吉山実里 中村萌 文山絵真




芦屋にあるアンサンブル・ゾネの稽古場にはこれまでに何度か訪ねたことがある。7×7とは床面の尺だそうで、踊るスペースとしては決して広くはないが、天井が高く、白い壁は清楚で、奥の壁の両隅のわずかなスリットから光が射し込むように設計されている。そのためか閉塞感はない。この稽古場でアンサンブル・ゾネのレパートリー全てを上演していこうという新しい企画が開始した。フライヤーに「陶芸家の窯開きのように」とある。日々ここで稽古をし、創作への思いを巡らす場所、振付家やダンサーの勤勉にして創造的な日常があること、そこから生まれるものを創造のかたちそのままに差し出したいということだろう。


計画の第一弾は2012年の『Place in the Moment』。初演ではコントラバスのライブ演奏が入り、ゲストに中村恩恵が出演した。この作品はダンサーの桑野聖子を「発見」したことで印象に残っている。開始後早々から主題の核心に迫るような迫真の踊りを見せた桑野。この日も大柄な骨格を生かし、小手先の動きにとどまることなく、空間との関係の中に自身の存在を確かめるように踊る。今回は35分のバージョン、初演時にはいなかった若手や新人も出演していて、年月を経る中でレパートリーを継承していく意味もありそうだ。何より若いダンサーが実践を通じてアンサンブル・ゾネの振付言語を体験する場となるだろう。


冒頭のソロを踊ったのが初めて見る人。バレエの基礎があるのかと見受けられたが、バレエとは異なる身体の使い方へのチャレンジでもあるのだろう、つま先立ちなどをしながらたくさんの振付を踊る。国内ダンス留学卒業以来こちらで研鑽を積んでいる住吉山実里は、振付をひとつひとつ考えたり確かめたりしながら踊っている様子だった。糸瀬公二はいつもの誠実で衒いのない踊りに、この日はちょっとしたグルーブ感も出ていた。気の置けない稽古場ならでは。選曲も素敵だった。伊藤愛は落ち着いた踊り。彼女を含めた女性4人のシーンは本作でひとつの見せ場だった。


ゲストの森美香代が入ると、生き生きと場が引き立つ。踊り込んできた身体のしなやかさと懐の深さでゾネの語法を咀嚼しながら、地面から自然に身体が立ち上がっているような、潔くくっきりとした存在感があった。中村恩恵のパートを踊るのかと思いきや、彼女のために岡登志子があらたに振り付けたという。


中村恩恵とのエクスチェンジ・プロジェクトもそうだったが、長いキャリアをもち、自身の方法論を確立し、たくさんの人を教えている舞踊家が、このような形で作業を共にするのは興味深いことだ。互いに異なる舞踊言語を持つ岡登志子と森美香代が、相手に振り付け、振り付けられ、思考や言語を交換し合い、自身の身体を更新し続ける。舞踊家がひとつのジャンルやテクニック、メソッドを自身の出自とし基本の言語とするとしても、キャリアの中ではそれに重ねて機会あるごとに様々なメソッドやテクニックを習得してゆく。自身の身体言語を常に進化させ更新しているわけで、若い時期に学んだバレエであったりモダンダンスであったり、グラハム・テクニックであったり、をそのままずっと固持しているというものではない。またテクニックやメソッドのほうでも、時代とともにその内容は変化し、更新されているのであって、半世紀以上も前のモダンダンスのテクニックが現在もそのまま、昔の古臭いテクニックとして生き延びていると考えるのは(あえてそれを堅持する方向もあると思うが)実際とは少し違うらしい。これは美香代さんが話してくれた。


こうした稽古場とかアトリエでのパフォーマンスは大好きである。劇場公演のための設えなど本来必要なく、ただダンスの生まれる瞬間に触れることで十分にダンスを思考することができる。もちろん、テクニカルを含めた公演形態でなければ提示しえない世界があることを否定するわけではない。間近で見ると、足と床、体の芯と空間の関係から身体のドラマが生じるのがよくわかる。ドラマとは具体的な内容を物語るという意味ではなく、身体の定常的な在りようから、何かが根底で動き、身体と世界の関わりようを変えていく、その大きなうねりのようなプロセスのことだ。合理性や理想を追求するのがバレエなら、ドイツ表現主義の流れを汲むアンサンブル・ゾネの踊りは、現に存在しているこの世界に、実体ある身体を通して、自身の存立の根拠を探り、確かめていくものであるように思える。


プログラムにはもう一つ、岡さんの即興ソロがあった。鮮やかな赤いワンピースを着て椅子に腰かけたところから、少しずつ動きが生まれ、やがて立ち上がり、一瞬一瞬が空間と呼応する。一定のムーブメントとして形を残したり軌跡を描いたりするのではなく、身体と動きが一体になって空間に存在する、その状態、変化するプロセス自体がダンスになり、音楽が終われば残されるものはない。ケレンもハッタリもない、けれども確かなものを見たという手応えと、動く身体の説得力が見た人の印象にのみ刻まれる。さりげなく始まったはずが、何か特別な出来事をこの目で見たような、見事な踊りだった。