2022年8月4日木曜日

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

730日(土)

スペースノットブランク『ストリート リプレイ ミュージック バランス』

                                                                      @カフェムリウイ

 



演出・出演 小野彩加 中澤陽 山口静

音楽 ストォレ・クレイベリー (アルバム「Meezotints」より『Ashes(Aske)』)

主催・企画・制作 スペースノットブランク

 

自らを舞台作家と名乗り、演劇、ダンスといったジャンル分類以前のパフォーマンスのかたちを独自に探求しているのがスペースノットブランクだ、と現時点ではとりあえずこのように言っておく。2019年からリサーチと上演を重ねてきた「フィジカル・カタルシス」の一連は身体にフォーカスしたシリーズ。ダンスの視点から見ても大変興味深い。とくに20213月にKYOTO CHOREOGRAPHY AWARDで荒木知佳と立山澄により上演された『バランス』は、瓦礫の固まりが対峙しあうようなごつごつと荒々しく、かつ息を詰めるように緻密なパフォーマンスに圧倒された。当方にとってこの時の舞台が「フィジカル・カタルシス」シリーズの唯一の観覧の経験(他は映像で視聴)ゆえにおのずと比較対照することになるが、主宰の小野彩加と中澤陽が自ら出演、さらにスペノに出演経験のある山口静が加わった今回は、『バランス』における熱量、質量はそのままに、ある種の洗練、もしくは様式化を獲得しているように見えた。

 

ではその内容はどのようなものか。ごく身近な動作や身振りと同等レベルの動きを敢えて脈絡を持たないように配した動きは、日常の具体性から切り離され、我々の現実の生への連想を引き起こすことがない。身体という素材・物質の具体性を介して現れるが、意味性はないという意味で抽象化されている。エフェメラルな現れではなく身体のマテリアル性、質量と密度を湛えた身体の現実を手放すことのないまま、重なりや連結や変形によって編まれる言語とその複層が独自の様式を生み出そうとしている。当人たちはパンフレットの文章で「段階(フェーズ)」、「階層(クラス)」といった言葉を使っている。「ミュージック」「リプレイ」「フォーム」「ジャンプ」「トレース」「バランス」「サイクル」「ストリート」「オブジェクト」と試してきた各フェーズから、今回タイトルにある4つを取り上げ「層状に重ねて」みたという。観覧したところでは「段階」「階層」とされる構造がすぐさま理解されるわけではないが、各フェーズのアーキペラゴ状の配置が作品を構成しているようには見とめられた。言っておくべきはこれまでの各「フェーズ」においては、かつて見たことのないパフォーミングアーツの風景が現れていたということである。それがしばしば「何なのだろうこれは」と戸惑いを覚えることにも繋がったが、今回は少なくとも、これをダンスとして観ることが出来る、というレベルでの様式が見とめられたのは確かである。

 

3人の出演者は黒いボディタイツにスニーカーをはき、アスリートのような装い。筋肉と脂肪と意志の力をみっちりと蓄えた身体で腕を直角に使ったミニマムな動きからはじめる中澤は、シリアスなクラシック音楽とともに身体の諸部位に焦点を絞った小さな動きを連ねてゆき、その一連を、向きを変えるなどわずかな変化のもとに繰り返す。山口は音と動きの一対一の対応を、中澤がスマホのアプリから打ち出すドラムスの一打音に合わせて行う。種類の異なるドラムスの音色ごとに動きが決まっていて、打音の一撃に対し規定の動き――片膝を素早く引き上げる、膝下を斜めに蹴り上げるなど、最小の動きを即座に振り出す。音の出力はスマホを操作する中澤に拠っており、二人の間のゲームか駆け引きのようにも見える。小野はクラシックのベースをもったダンサーだがここではテクニックもシャッフルされており、中澤や山口の動きよりも全身の運動性の高い振付を弾力を感じさせる巧みなアーティキュレーションによって実行していく。時にバレエのポジションやポーズが見られたが、シャッフルされた身体の可動性の中の一つの現れとしてである。全編にたくさんの振付が施され、皆よく動く。とくに他の公演では演出に徹する小野と中澤が自ら踊るのを初めて見た。強い。振付の語彙はポストモダンダンスのそれに近いが、パフォーマンスの密度、動きの質量、振付の情報量、上演への意志と思考の力が尋常ではなく、破壊や解体や還元主義とは明らかに異なる。

 

個々の動きのほか、デュオ、トリオのシーンもあるが、分かりやすいコンタクトやパートナリングを行うわけではない。互いの作り出す動きの線、あるいは面をつないだり、重ねたり、といった操作と配置。テラスから同時にカフェ内部に入ってこようとする3人の身体が扉の幅を堰き止めてしまい身動き取れなくなる、といった場面もあった。3つの線/面/フェーズの絡まり合ったバグ。

 

会場のカフェムリウイは初めて行った場所で、祖師ヶ谷大蔵の商店街の雑居ビルの階段を3階に上がると、屋根の連なりの先に空が広がる素敵な眺望のテラスに出る。カフェの内側とガラス窓で隔てられたこのテラスも上演に使用される。階下へつながる階段を使ってダンサーが登場するのだが、借景となる空の向こうから現れたり去ったりする上演のスペックが、パフォーマンスの生起する仮構の平面を思わせた。

 

スペースノットブランクは今年のKYOTO EXPERIMENT 2022の公式プログラムにラインナップされ、戯曲の松原俊太郎と組んで演劇と映画に関わる作品を発表することになっている。こちらは「フィジカル・カタルシス」とは異なる関心を追及することになると思われるが、こうした各方位の関心とリサーチと上演の先に、小野・中澤は舞台芸術の何を見ようとしているのか。未だ決定的な論評がされていないグループであるし、ステイトメントに用いる語彙にも異なる含意があるようで、そのヴィジョンの全体を把握するのは困難を要し、非常に評価が難しい。冒頭で「とりあえず」としたのはそのためだ。KYOTO EXPERIMENTのディレクター諸氏はスペノのどこに期待と関心をもって招聘を決めたのか、記者会見はあったものの、それぞれの思いを是非直接聞いてみたい。

  

2022年7月8日金曜日

鈴木ユキオプロジェクト『刻の花 トキノハナ/moments』

 71日(金)

鈴木ユキオプロジェクト

「刻の花 トキノハナ/ moments             @シアタートラム

 



 

コロナ禍を経て2年半ぶり、鈴木ユキオによる待望のカンパニー公演である。写真家、八木咲との共同を通して、瞬間を切り取る写真の特性に着想し、時間をモチーフとした2つの作品を発表した。


『刻の花 トキノハナ』は鈴木のソロ作品。「コロナ自粛中に、生活を切り取るように撮影」したという八木咲が共演する。舞台を奥と手前に分けた中ほどに紗幕がおりていて、八木の撮影した写真が投影される。東京郊外からさらに山奥の、鈴木が家族と生活し稽古場をもつ自然豊かな環境の中の、土の上の小さな草花などのささやかな風景が、ぽつりぽつりと間を置きながら映し出される。上手側には水を張った器、石や岩、木組みの椅子など、写真の風景にちなんだ自然物や古びた道具が置かれていて、その一隅に鈴木と八木が並んで腰をおろし、こちらに背を向け、紗幕に映し出される写真を見ている。そんなふうに始まったソロ・ダンスは鈴木の近年の踊りの充実が、あるマニエリスティックな至芸の領域に入りつつあることを思わせた。冒頭に鳴っていたピアノ曲はいつやら消え、やがて無音となるシーンで、水を打ったような観客の集中と、濃やかにストロークを刻み続ける鈴木の踊りが張り詰めた空気の中で対峙する時間など、実に得難い瞬間だった。コロナ禍を経て、リアルに身体と向き合う体験の換え難さをこれほどまでに感じたことはなかった。


肩と顎の距離を寄せて引き攣らせた独特の構えから動きが振り出され、絶え間なく時を刻む過程。独自の言語の熟練であり至芸とは言えども、その推移は予測不能の出来事の連なりだ。腕のストロークの連続の中に不意に小さく跳んだり、イレギュラーな動きの要素が介入したりする。それらが振り付けられているのか即興で放たれるのかは分からない。構造は消え、かつて自らへの批評として踊りをせき止めた「中断」は語彙に吸収される。振りと刻みは面を開き、空間に独自の肌理を生む。そう、深さに降りるのではなく表層を耕すストローク。その背後に膨大な日々の営みと稽古の積み重ね、思索の痕跡がある。家族をつくり、場所を構え、環境に身体を深く根ざして育まれた踊りである。「小さな環境でささやかな毎日」「特別なことは何もないけれどそこに差し込む光」「かけがえのないもの」「繊細で壊れやすいもの」と鈴木は記している。この控えめでつつましやかな言葉に、地を耕し、風雪に耐え、踊りを継いできた舞踏の先人たちの系譜を思う。


終盤に暗転し、終了かと思いきや、再び照明が入り、踊り続ける鈴木がいる。面を耕し続ける身体の営みに終わりはない。歴史を継ぎ、心身を投じ、生きることと同義の現れの、むしろ坦々とした表面に存在の凄みを見る。


    moments』ではやはり写真から得た発想を鈴木のソロとは別の形に展開する。8名のダンサーによる遊戯的な作品で、モチーフを様々に発展させた諸々のシーンで構成される。冒頭はひとりずつアップリケや漢字の一文字を施したオリジナルのTシャツを着て登場、それぞれのキャラクターを動きにしたようなソロ・シーンを披露していく。長身で朴訥とした感じの山田暁がこちらを振り向くとTシャツに「刻」の一文字。無論、鈴木ユキオの「刻の花」のパロディで、無表情の中の微かなギャグ味に笑いを押し殺した。安次嶺菜緒は張り詰めた空気をその身一つで完璧に統御、集中力が抜きんでていた。各人の名刺がわりのようなソロから少しずつ関係性を作っていく。途中衣装を変え、動きのモチーフも変わり、「個々の」「切り取った瞬間」を覗き見てフレームの内部に入っていくと、ミクロの世界がリアルへと転位し、人数を生かしたプレイフルな風景が次々と繰り広げられる、といった具合。白黒のギンガムチェックの衣装を着たダンサーらがゲームのように位置関係を変えていくシーンのワンダーランド感。フィクショナルだが、あくまで身体と動きの本質を追及した先の風景である。ダンサーは皆訓練が行き届いており、ソロ、デュオ、アンサンブルまで様々な形式、質感、語彙に難なく対応する。「個」や「瞬間」のモチーフを転がして着地点を定めない探索を作品の中でどこまでも推し進めていくような、作品そのものがタフで長い旅。気が付いたらこんなに遠くまできてしまった、と充実感と寂寥とが入り混じった感慨がやってきた。ダンスの未踏のフィールドはどこまでも広い。




振付/演出:鈴木ユキオ

出演:「刻の花」 鈴木ユキオ 八木咲

     moments」 安次嶺菜緒 赤城はるか 山田暁 小暮香帆 中村駿 西山友貴

         小谷葉月 阿部朱里

照明:筆谷亮也

サウンドデザイン:斉藤梅生

楽曲提供:前原秀俊

衣装:山下陽光(途中でやめる)

         


2022年7月5日火曜日

Co.Mito Ruri 『ヘッダ・ガーブレル』

 

630日(木)

Co. Ruri Mito 『ヘッダ・ガーブレル』                    @愛知県芸術劇場

 

 

 

 

イプセンの戯曲を原作とした舞踊作品。「人形の家」同様、近代化の過程でなお残る古い因習の中で生きる女性の葛藤する姿を描く。あらすじのみを押さえて観劇に臨んだが、岩波文庫の解説には「美しく魅力的な婦人」「暇で退屈だけれど自分では何をしたらいいのかわからない」「でも他人の成功には平成でいられない」「強そうで臆病」「望みが高いが平凡」「気位が高いくせに嫉妬深い」「複雑で矛盾した性格のヒロイン」などとある。上演史上は女ハムレットの異名もあり、各国の女優の意欲をそそる役であるようだ。すでにある物語を舞踊にするのは、ことにストーリーやドラマを表現しないことが主流となった今日のダンスにおいては、むしろチャレンジといえる。公演前にも戯曲を舞踊化する今作の試みに焦点を絞った対談がリリースされている。三東は原作のプロットを追うのではなく、主題の本髄を掴み取り、一人の女性の内面の動き、人間の精神のドラマとして立ち上げた。

 

主人公と自身を重ねた三東瑠璃の圧巻の身体、独特の言語によるコロスたちの集団ワーク、加えて今作では視覚に訴える濃密なイメージが映像を駆使して次々と投入される。記憶のフィルターを通した幻想的な映像には、男性(森山未來)との粘着的な関係が仄めかされ、主人公は関係性への執着と解放への希求との間で引き裂かれる。意識の底から掬い上げられたようなイメージは、懐かしさで人を縛りもすれば、存在を脅かしもする。エフェメラルな映像と舞台空間が重なり合い、映像の中の人物とリアルなダンサーの身体とが融合してシーンを形成する手法も新規な試みである。挿入されるテキスト(「それも愛だったのだろうか」などの文句が出てくる)の朗読がさらに重層的に記憶や幻想の描写を色濃くしてゆく。

 

特徴的なのは床に急勾配の傾斜をつけていることで、ダンサーにとっては大きな負荷となる。本作に先立つインタビューで三東は主人公ヘッダの「痛み」について語っているが、この負荷の大きい床で踊ることでその痛みを自らの身体で生きようとしたのにちがいない。見る側にとってこの急勾配は床面近く低めに推移する三東の動きを隈なく見るのに役立った。しなやかで敏捷で動物的な身体は配役以前の三東自身の踊りを他と区別するものとして認知されるが、可動域を超えるほどの背面の湾曲を何度も見せ、そのたびに生への渇望と痛みが三東を貫く様子は、主人公の苛烈な生が三東自身のそれとして現れ出るかのようだった。床からホリゾントまでが一枚のスクリーンになり映像が大きく投影されたり、勾配の天辺でダンサーらが動いていると、その群れから床を転げ落ちるように人物の映像が投射されたりするのも斬新だった。全体に縦のスケールが強調されており、そのことが叙述的であるより直観的に精神のドラマの強弱や高低を掴み出して提示するのに奏功していた。最後のドレスが床の底辺から引き上げられてゆくシーンも、美しくも凄絶。ヘッダの悲劇的な生の結末を象徴している。

 

共演のダンサーたちの動きはCo. Ruri Mitoに独特のもので、一人一人が固有の身体性を謳歌するコンテンポラリーダンスの思想とは異なる身体観による。最初にこのグループを見たのは2018年の『住処』@セッションハウスだったが、どのような影響関係のもとにこのような身体の扱いが生まれてくるのか全く見当がつかなかった。集まった複数の身体は有機的な群れになり、不思議な形で結び合い、重力に対し共同の力で抗する。互いを支え、ソリストの身体を支え、信頼で結びつき、献身的にタスクに殉じる。テクニックを備えたダンサーの身体がリズムによって自律的に動き出すといったダンスの作り方とは全く違っていて、身体がその物質性に依拠したまま相互に作用し合い、形状を結び、関係性を変化させてゆく。力の配分や位置関係は精密に振付・設計され、精度高く遂行されているように見えるが、たとえ重力やコンディションなどの誤差がイレギュラーな出来事を招いても、互いの間で吸収していくような、それ自体が呼吸する、中心のない集合体である。

 

 

 

 

 

 

2022年6月8日水曜日

展覧会 「ミニマル/コンセプチュアル」

529日(日)

展覧会

ミニマル/コンセプチュアル

ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術

@兵庫県立美術館

 

 

美術史上に思考の転換をもたらしたミニマリズムとコンセプチュアル・アートを、1967年デュッセルドルフに画廊を開いたフィッシャー夫妻が手掛けた展覧会を主軸に振り返る。昨年より川村記念美術館、愛知県美術館での開催を知るも見る機会を逃したと惜しく思っていたところ、足元の兵庫県美で行われているのを閉幕前日になって知り、最終日に駆け付けた。関心の所以はこの動向がポストモダンダンスの発生に深くかかわったものであること、また個人的には現代美術に多く触れた時期の美術界にこの思潮の余波があり、遠い歴史上の一トピックという以上に近しさを感じることである。順路の最初の部屋に展示されたカール・アンドレの『鉛と亜鉛のスクエア』の金属版の並びや『愛と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌』の144個の鉛の立方体は、もの派やその後の80年代の彫刻に通じるストイシズムと物質感を醸している。だが物質や物体としての作品はこの2作のほかは数えるほどしかなく(リチャード・ロングの柳の枝を床に平行に並べた『コンラート・フィッシャーのための彫刻』はその少ない例)、展示のほとんどが写真、スケッチ、描かれないキャンバス、指示書、あるいは手紙、展覧会の招待状、印刷物などの資料で構成されている。ソル・ルウィットの『ストラクチャー(正方形として1,2,3,4,5)』は三次元の物体だが素材と量塊を伴ったモノというよりは観念の立体化というに近い。それがそもそもミニマル/コンセプチュアルというものではあるか。文字情報が多く、キャプションを含めて「読む」ことに労力を費やす展覧会でもあった。それでも作家の思考の跡にこちらの感覚がカチっと嵌る快感がある。

感情を排し、禁欲的で規則的な表現と言われるが、たとえば河原温の日付を記したメモを途方もない年月の分だけ反復連続したインクの跡、とか、画廊主に宛ててその日の起床時間を記して送った絵葉書の何年分もの集積、などには、一定の作業を当該の期間中に一日も欠かすことなく延々と続けた、その静かで淡々とした行為の執拗さ、コンセプトを貫徹する熱量に驚く。行為はミニマルだが想像力は今日の人間が生まれる遥か以前からもう誰も生きてはいないはずの未来まで100万年に及ぶ遠大なものであったりする。これまで機会があれば目にしてきた日付を記した一幅のキャンバス≪Today≫は、その膨大で遠大な反復の中の一コマ、一片、一単位であったのだ。展覧会で一望して初めてコンセプトの全容に触れることができた。またハンネ・ダルボーフェンのペン書きされた賃金・給与リストやそのシリーズも、形は違うが数字というミニマルな単位の反復連続やそのバリエーションへの偏執的なまでの情熱、熱量に圧倒される。この作業に没頭する作家の「身体」が色濃く刻印されている。

 単位、規則性、原理への志向と表現のストイシズムの観点からは、他にリチャー・ロングとスタンリー・ブラウンにも惹かれた。この二人は展覧会の構成上、「歩くこと」と題したセクションにまとめられている。スタンリー・ブラウンによる、人間の踏む一歩と抽象的な距離の10㎞の関係を数理的に考察し、タイポグラフィを打ったインデックスカードに登録・集積した一連の作品も、ハンネ・ダルボーネンとの近さを感じさせる。この緻密で、簡素ながら論理的で、タイトで禁欲的な思考に美、もしくは詩が宿るぎりぎりの表現。柳の枝のインスタレーションで先述したリチャード・ロングは、草地に人の歩いた跡を一本の道=線と見做した写真を展示。ミニマルな志向を自然の環境や身体に結び付ける発想がイギリス人らしい。ベルント&ヒラ・ベッヒャーの写真、ブリンキー・パレルモのペイントに関しても、対象に形状の原型をみる姿勢を面白く思った。なぜかラインナップされているゲルハルト・リヒターや、フィールドワークに基づいたローター・バウムガルテン、「日常」のキーワードで展示されたギルバート&ジョージなどは、ナラティブの要素を引き込んでおり、展覧会の主題との関連に必然性を感じなかった。

 さて、ダンスとの関連では、一点だけビデオ作品にダンスへの接続を思わせる出品があった。モニターの中のモノクロの映像に男性がひとり、自身の脚を尺に、わずかに遠心力を使い、一投足ずつ向きや角度を変えながら振り出す動作を行っている。間をおかずに動作は続くがリズムやカウントはなく、音楽よりも建築的な発想による身体の数理の積み重ねであり、ここからたとえばトリシャ・ブラウンの『Accumulation』までの距離は近い。また、作家がデュッセルドルフのギャラリーまで出向かずとも現地での作品展示を可能にする「指示書」の発想は、近年、議論される振付の概念に関わる事項の一つといえる。美術のミニマリズムがポストモダンダンスの発生源であることはつとに語られているが、日本ではこうした数理・論理的思考による概念的(コンセプチュアル)なダンスの潮流は生まれなかったか、もしくは大きくならなかった。同時代の日本は舞踏の影響が圧倒的であったことがその理由の一つと言われる。だがダンス創作における、あるいは振付における論理思考、原理的思考の経験の欠如が、2020年代現在の日本のコンテンポラリーダンスの一部に見られる学校ダンスの延長のような集団性に依拠したナイーブな作舞や、浪花節的なナラティブに対し、無批判な状況を招いているように思える。 

2021年4月14日水曜日

垣尾優『それから』

228日(日)

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

@ロームシアター京都 ノースホール

 

 


関西のローカル・ベースで活動してきた垣尾優。京都のハイ・ブラウなアートシーンとも少し毛色の違う彼が、KYOTO EXPERIMENT 2021の公式プログラムにラインアップされた。公演日前から事務局はツィッター上にこれまで垣尾の作品に触れたことのある縁の人々からの応援メッセージを連投、ちょっとした「垣尾優まつり」、といっては大げさだろうか(私も寄稿した)。さまざまな人がそれぞれの言葉でこの異色のダンサーの魅力を伝えているが、それは踊り手として長いキャリアを誇りながら、確定的な評価の言葉を得ていないことの裏返しでもあり(批評の端くれとして責任を痛感する次第)、やはりというか、どの人の言葉も一様ではなく、垣尾の魅力が一言で語れるものではないこと、何か前例のない不思議なセンスの持ち主であってまったく既視感がないことの証でもある。


ダンスボックスが大阪の千日前にあった時代、「呆然リセット」という男性二人組のユニットで活動していた垣尾が一度ソロ作品を発表したのを私は見ている。ナンセンスともユーモアともつかない行為性を含んだパフォーマンスは隘路に迷い込んでいて、まだ自身の方向性を模索する最中のものだったろう。その垣尾がダンサーとしての自身の身体と出会うきっかけは、岡登志子のアンサンブル・ゾネへの参加だったのではないか。確かな理論に基づいた岡の振付を受けて、垣尾が自らの身体の可能性を舞台上で開花させるのを見るのは感動的だった。しかし彼はカンパニーの一ダンサーとして踊ることに留まらず(現在もゾネにゲスト出演しているが)、やがて塚原悠也とcontact Gonzoを開始する。すでに語られているように、ある晩「コンタクト・インプロビゼーションの稽古をしよう」と垣尾が夜の公演に塚原を呼び出したのがきっかけだ。最近では佐藤健大郎と秘密裡にイヴォンヌ・レイナーの『Trio A』を稽古しているとの噂も耳にする。ダンサーの習性であるのか、さまざまな技法やレパートリーに関心を持っては自主練しているのだろう。さらにノーラ・チッポムラのダンス作品、松本雄吉のパフォーマンス作品、砂連尾理の『猿とモルターレ』に出演。最近では増田美佳が主宰するmimaculの『夢の中へとその周辺』に増田、捩子ぴじんと共に出演していて、実にさまざまな方向性をもった表現者に信頼されてやまないダンサーであることが分かる。腰高で胸板が厚く頭部の小さい日本人離れした体格、匿名的な「ある男」として舞台に立つ存在感。振付の核心を直観で受け止め、過度に熱くならずクールに突き放すでもなく、淡々と動いて懐深く体現するダンサーの身体。その垣尾の創作者としての熟した一面が明らかになったのが一昨年に発表したフル・レングスのソロ作品『愛のゆくえ』である。自ら手掛けた空間の仕掛け、小道具、合成した音楽、それらが醸し出す不条理とナンセンスに彩られた世界。垣尾の中にかくも奇妙なテイストをもつ独自の世界が広がっているとは。寡黙な印象のある人だけに舞台は見る人すべてを驚かせた。今回のKYOTO EXPERIMENT 2021への参加は、この『愛のゆくえ』が評価されてのことと思われる。 


ここまで、あまり広く知られていない関西ローカル・ベースのダンサーのこれまでの歩みを振り返ってみた。


さて今回の新作ソロ『それから』は、記者会見時の本人のコメントに違わず、昨今の国際フェスティバルでは希少なほどのダンスそれ自体でシンプルに見せる作品だった。ノースホールの床から嵩を上げた特設ステージ上がパフォーマンスの行われるエリア。会場入り口からステージ脇を通って奥の壁の出入り口まで通り抜けになっていて、奥の開いた扉からは続くバックヤードが見える。この通路の床にはミサンガのようなカラフルなリボンや何台もの自転車が並んでいて、劇場における上演を外へ開く通路であることが仄めかされる。開始前から音響として砂利を踏む靴音や環境音のノイズが聞こえている。垣尾優は通路から特設ステージによじ登って登場し、やがてノイズも止んで無音となった空間でパフォーマンスを開始する。


特設舞台の黒い床の中央に一本の大根が置かれていて、垣尾はその傍らに立ち、片手を眼前にかざした格好で静止する。さりげない立ち姿勢だがどこか飄々として戯画的な風情が漂う。気が付くと姿勢が徐々に傾き、揺れや振りが生じている。垣尾の動きはフォルム、ムーブメント、ステップなどダンスの構成要素として取り出すことのできない不定形で瞬間的なもので、身振り以前、ステップ未満の断片が動きの芽生えや気配のようなものとして身体に生じるさまを観客は息を詰めて見守る。とくに前半部、音楽なしで動きが次々と、相互に脈絡なくとも連続して沸き起こり推移するさまは、濃やかで野性味があり、クオリティの高さに目を見張った。


赤い上下のつなぎを着た垣尾は足音を立てて少し歩をすすめる。床に横たわり、立ち上がって手を振り、せわしなく動く。がくがくっとつんのめるように左右の足を踏み込むが重心はしっかり据えており、左右の手を肩先から、ぐぐっと上へ二段階で差し出そうとするかに見えて、腕を伸ばしきることなく引き戻す。ひとり舞台の上に居て、迷い、選び、探り、動きを手繰り寄せる。日常的というには親密さはなく、パーソナルというより匿名的なそれらは、かつて何者かであった身体の記憶である。岸辺に辿り着いた人類の遠い記憶が身体に到来する。「動き」とカギ括弧つきでは呼び得ないもの、「歩き」「倒れ」「上げ・下げ」「揺れ」「ぶれ」「震え」「振れ」…と名指し得ない身体のざわめきが、遠い記憶とともに絶え間なく到来するのである。


突然「キーン」と耳を劈くエレクトリックな鐘の音でパフォーマンスは次のフェーズへ移行し、天井から銀色の器が下りてくる、垣尾は大根を手に取り放り投げる構えを見せ、虎のお面を被り、また自ら音を出すなど遊びの要素が入り始める。だがここでのメインのタスクは自転車を一台ステージに載せ、工具を使っていそしむ解体作業である。赤いつなぎはエンジニアの作業服からの発想だろう。本物の自転車というゴツいオブジェとの遊び、もしくは難儀しながらの解体作業という格闘は、ほかならぬcontact Gonzo的なタスクと言える。車輪や車軸など抽象性をもった部品が身体とともに舞台にある様子は、手術台の上のミシンとコウモリ傘の光景を成している。工具や部品のたてる金属音にエコーがかかり、メカニックの作業が硬質なリズムのある音楽になる。このあたりの展開はややテンションが緩んでいて、作業する身体の朴訥とした味わいや、脈絡のないシュールなオブジェ、垣尾の分身として『愛のゆくえ』以来のサルのぬいぐるみの登場など、垣尾のキャラクターの滲む箇所でありパフォーマンスの意図するところであるとしても、全体の運びや構成にはまだまだ詰める余地があると思われた。


それでも終盤に向けて、自転車や他のオブジェとの絡み方がカオス度を増し(銀の器を頭にかぶる、解体した自転車をロープで釣るなど)、そこにキレも粘りもある垣尾の踊りが熱量高く混入し始める。相変わらず不定形のまま素早く激しく動く、と思うと浮力を得たように遊泳する。タスクを負い、行為し、振舞い、動き回る身体に、人類の、いや非人類の記憶の中にある身振りが現れては消え、訪れては去りを繰り返しているかのようである。


当日パンフレットにある垣尾の文章は、自己紹介とともに出生からこのかたを辿って遥か大陸を巡り、あるとき道を選択した「運命的な出会い」の時を語る。そして「それからです。」というのである。タイトルの所以である。どこか人を食ったようでいて、踊りへの愛が滲んでいる。



2021年3月8日月曜日

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

 

KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』 上映会

3月5日(金) @ロームシアター京都 ノースホール

 

 

ホルツィンガーは1986年オーストリア、ウィーン生まれのダンサー・振付家。アムステルダムとウィーンを拠点に活動する。今回初めてその世界に触れたが、いかにもヨーロッパらしい肉体への執着・偏愛と濃厚な美学的アプローチに、悪趣味ともいえるサディスティックなパフォーマンスが合体し、唯一無二の過激でスキャンダラスな舞台が繰り広げられた。内容的にも時間の尺も膨大・長大(手元の時計では100分弱ほど)なボリュームがあり、そろそろ一息つかせてほしいと思うこちら側の耐性をよそに、さらにシーンを被せてくる。相当に感覚が刺激されるので、冗談ではなく観覧注意である。新型コロナウィルス感染拡大の影響でアーティストの来日が叶わず、上映会の形が取られたが、本来なら舞台で生のパフォーマンスを見たはずのもの。その場にいたらはたしてどのような感興を得たことであろうか。

 

タイトル『Apollon』はバランシンのバレエ・リュス時代の作品で、作曲はストラヴィンスキー。ギリシャ神話に材をとり、アポロと3人のミューズが登場する。「古典的なフォームの美しさが追求されたバランシンらしい振付」とプログラムにあるが、YouTubeで見るといわゆる古典バレエに対して斬新、清新な作風、かつ天上世界の清澄な雰囲気が「アポロ」のタイトルに相応しい。これをベースにしたホルツィンガーの挑戦は、一つにこのアポロ的な天上世界に対するディオニュソス的な陶酔を追究すること。さらに西洋美学の正統、アカデミズムに対する周辺的、大衆的、娯楽的な路線の対置、ハイアートとエンターテイメントを一緒に扱うことにあると見える。

 

大衆的なパフォーマンスの要素はサイドショーと言われる見世物に顕著だ。ホルツィンガーはニューヨークを旅し、コニー・アイランドで見たサーカスやエンターテイメントに大いに関心を持ったという。サーカスは今回入っていないが、サーカスの「隣で行われる」の意のサイドショーを取り上げている。本作の冒頭は長さ8センチの釘を自身の鼻の孔に差すというもので、ハンマーで少しずつ深く差し込んでゆき、パフォーマーのMCによれば頭蓋骨に到達させるのだという。また細長く膨らませた風船を飲み込むメニューでは、咽頭、呼吸器、食道、胃までを貫く風船のチューブが少しずつ口から入っていく。危険極まりない、きわどいショーである。ピンク色の風船チューブは男根を示唆してもいると思うが、そう、この作品はミューズの名のもとに6名の女性たちが欲望と背徳の限りを尽くすもので、女性の身体表象が大きな主題となっている。女性たちはほぼ全裸、アマゾネスという言葉があるが、エロスと野蛮が全方位的に開け放たれた身体である。腰に黒いベルトをしている者、スニーカーを履いている者、トゥシューズをつけて踊る者など、わずかな装身具が生まれたままの無垢の体と文化的に選択・武装された裸体との一線を保っている。チームはダンサーとサイドショーのアーティストが混在した編成で、ホルツィンガーの友人が多く参加、ショーのアーティストはその道のプロを呼んだという。そうだろう、とても素人の手出しできるものではない危険なもので、剣を飲むメニューなども含まれる。他にピアッシング、脱糞、腕詰め(指詰めならぬ)、自分の左右の鼻孔を通したストローで観客にカクテルを飲ませる、といった痛みや生理的な嫌悪を伴った悪徳、悪ふざけの数々。平行してランニングマシン、ダンベルなどを用いての身体の鍛錬も行われる。痛みと快楽の経験の場としての肉体礼賛であろう。

 

一方、美学的な表象としては、天上を描いた空と雲の背景画、雲の上を模したのであろうか舞台中央を大きく占める白いエアーマットレス、その中央にいる牛の等身大フィギュア、そして二人のダンサーによる左右対称のポーズ。二人はダンベル運動もすればバレエのポワントも見せ、舞台を縁取るようにシンメトリーの構図を作る。舞台で行われる行為の数々、表象、イメージの数々が縁取られて一幅の絵になる。牛は電動でうねるように動き、跨る女の身体も大いに翻弄される。同じく牛の背中に身を預けるもう一人の女は、尻をぴしゃりと叩かれて快楽の笑い声をあげる。牛は舞台上のシンボリックな存在で、獣性、欲望、怠惰、愚鈍、愚劣、下等を意味すると見える。白いエアマット上に寝そべりくつろぐ女たち。脱糞したものを食すという文字にするのもはばかられる行為に至るミューズたちである。おそらくは西洋美術史上の名画や神話の場面を参照しているのであろうと思われるシーンや構図が含まれ、私はこの方面に不案内なのだが、知識があればより楽しみや味わいが増すだろう。ちなみに西洋絵画の伝統では脂肪のたっぷりついた女性の尻のえくぼが美学のツボと聞くが、本作のほぼ裸体の6人は長く美しい脚、豊かな脂肪のついた腰や腹、たわわな乳房、なびかせる長い髪と、たしかに西洋美学のミューズを思わせる肉体を誇っている。贅肉一つついていない現代的なダンサーの身体とは異なる身体像である。

 

参照といえば、ポストトークでディレクターチームから、実際に見て取れた種々の引用について言及があったのは参考になった。西部劇のパロディは誰の目にも明らかだが、スターウォーズ、007、20世紀後半のアメリカ大衆文化も含めた様々なリファレンスに満ちた作品であったことが理解された。初めての鑑賞ではとにかく行為のショッキングなことに感覚の多くが持っていかれてしまうわけだが。それも含め、映像配信ではなく、劇場での上映会の形をとったディレクターチームの選択は正しかっただろう。これをパソコンの画面で情報として受け取ったのでは、全く「体験」にならなかっただろう。


演出:フロレンティナ・ホルツィンガー

製作:CAMPOアートセンター(ベルギー)

 

*映像は201710月にCAMPOによって撮影された

 

2021年3月7日日曜日

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADOR

 

32日(火)

映画 『イサドラの子どもたち』LES ENFANTS D’ISADORA   @元町映画館

  

モダンダンスの始祖として知られる伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン(「イザドラ」が正しいと言われる)。映画ではダンカンについて多くを語らないが、彼女が二人の子どもを事故で亡くしており、その悲痛の中で亡き子どもたちに捧げて創作したソロダンス『母』をモチーフとして語り進む。物語は、この『母』を巡って、作品をそれぞれの関わり方で受け止める女性たちについての3つのオムニバスで成り立っている。互いに直接には関わらないが静かに呼び合う3つのエピソード。舞踊作品『母』には記譜が残されており、これを手に入れた振付師のアガトが丹念に読み込みながら振りに起こしていく様が、最初に描かれる。パリの街の寒色の風景の中、ひたむきに記譜に向き合う若き振付師の勤勉さ、創作にいそしむひたむきさが引き締まった空気を画面に与える。周辺的な話題というものが一切描かれないのも特徴的。アガトという人物や生活にまつわるあれこれなどには一切触れないのである。またダンスを描くのに、稽古場の熱気とか、身体のリアリティといった定形を用いず、記譜を読み、振りを起こし、その作業の中にイサドラ・ダンカンの魂をすくい上げようとする淡々として知的な取り組み方が、かえって新鮮だ。コロナの時代のダンス創作に相通じるものがある。今ここであること、一つの場所に集まること、生身の身体によって遂行されること、共同性の中で創作すること――上演芸術の条件と信じられてきた約束事が無効になって、なおダンスの真髄に触れようとする態度。アウラを介さない創造と受容。もう一つのダンスへのアプローチは可能なのである。


二つ目のエピソードは、『母』の公演を控えてリハーサルを重ねる振付師マリカとダンサー、マノンの対話と交流の日々。二人は親子なのか、と最初に思ったのだが、マリカには離れて暮らす二人の子がおり、マノンはそのマリカの寂しさ(彼女と子たちとの間にどのような関係の経緯があるのかは語られないが)をみつめる。マノンはダウン症であると思われ、いわゆる鍛え抜かれたダンサー然とした身体をもった踊り手ではない。そのことが映画を複層的にしている。マノンは誰かのケアを必要とする側と思われるが、実際には傍らのマリカを深い洞察によって思いやっている。母と娘に似ていながら、それとは違う関係性が一組の振付師とダンサーの関係に垣間見える。


3つ目は『母』の公演を見た観客のひとり、エルザの物語。観劇後の彼女の行動をつぶさに捉えていくが、やはり周辺の事情は一切語られない。拍手をし、劇場を出て、杖をつきながら街路を歩き、レストランに辿り着き、ひとり遅い夕食をとり、タクシーに乗り、夜も更けており、さらに杖をついて夜道を歩き、カギを開け、家に入り、鍵を所定の場所に置き、部屋着に着替える。なぜかこの行動の一部始終をカメラは追っていく。そして彼女の老いが見る者に切なく迫り、部屋に飾られた写真の少年は彼女の子であろうことが察せられる。喪失の中で重ねてきた彼女の月日が想像される。カーテンを開け、夜の街の景色を見るエルザの、遠い目、孤高の魂。かつては舞台に立った人であるのかと、ふと思った。


母になったことのない女性、現在母である女性、その傍らにある女性、そしてかつて母であった女性。年代も境遇もルーツも異なる4人の「母」を巡る思索が、イサドラから時を超えて遠く響き合いながら、静かなトーンで描かれる。余計なもののない物語、そして画面。それでも十分に、むしろたっぷりと語られるそれぞれの魂のドラマがある。



監督:ダミアン・マニヴェル

脚本:ダミアン・マニヴェル、ジュリアン・デュードネ

撮影:ノエ・パック

出演:アガト・ボニゼール、マノン・カルパンティエ、マリカ・リッジ、

エルザ・ウォリアストン